SSブログ

神命 (韓国の民族音楽 meets フリー・ジャズ) [民族音楽]

10数年前、バリに長期滞在中、俺が滞在していたロスメン(民宿)に親しくしている友人が遊びに来た。折悪しく、丁度マンディ(水浴び)をしている最中だったので、「そのへんにあるCDでも聴いて待っててくれ」とバスルームから呼びかけた。

ところが、部屋から聞こえてきた音楽は俺が今まで聴いたこともないようなインパクトのあるものだった。少なくとも俺が所持しているものではない。どうやら友人が持参したCDをかけているようだ。そのあまりの強烈さに驚き、水浴びを中断、バスタオルを腰に巻くのももどかしく部屋に戻り、「これはなんだ?」と友人に詰め寄った。

それがこの作品である。

神命

sinmyong.jpg

幸いにも日本で探しまくって偶然発見、当然購入した。

この作品、韓国の伝統楽器を演奏する音楽家とフリー・ジャズのベーシストとのコラボレーションのようで、これを「民族音楽」と言ってしまうことには若干の疑問を禁じえない。

では、どこで「民族音楽」と「それ以外」の線を引くか、であるが、これはなかなか難しい。


日本の某能楽師のコマーシャリズムに乗った最近の活動は民族音楽か?いや、あれは能楽で使われる楽器の音響的斬新さと能楽師の時流に乗った知名度を利用しただけのヒーリング・ミュージック、もしくはフュージョン(死語?)だ。民族音楽からは完全に除外することに異論を唱えるものはいないだろう。

では、Jon MacLauhglinがZakir Hussainと立ち上げたShakti。これは演奏の殆どがインドのネイティブな民族楽器奏者であるが、演奏している曲がインドの伝統的手法に則った音楽ではない。Jon MacLauhglinが目指したのはジャズとインド音楽との融合だ。ゆえにこれも民族音楽からは除外だろう。

しかし、ここに待ったをかける俺もいる。バリのガムランだって古典的手法によって作曲された現代曲は多い。これらは「民族音楽」ではないのか?いや、やはり「民族音楽」であろう。使用している楽器、作曲手法がバリの伝統的なものであり、作曲者がバリのネイティブだからだ。

ちょっと待った!数年前に、バリのガムランにエレクトリック・ギターを加えた編成が若者を中心に流行っていると聞いた。あれは民族音楽ではないのか?

民族的に音楽する者として(その『民族』なのが自国の民族でないのが俺の大きなコンプレックスなのだが)、俺自身の事を振り返って考えてみよう。例えば、数年前に日本のプログレシブ・ロックを演奏するバンドから依頼を受け、用意されていた曲に民族楽器でレコーディングに参加した。俺が演奏したのは殆どがバリの伝統的なメロディーだったが、あれは明らかに「民族音楽テイストを取り入れたプログレ」であって、決して民族音楽ではない。
また、随分前になるが、日本の某芸能集団がバリで行われたフェスティバルに招聘された際に客演依頼を受け、ガムランとキーボード、ドラムで演奏することを前提として作曲された現代曲にエレクトリック・ギターのアレンジを施して演奏したことがある。あのときの俺は「民族音楽を演奏している」という意識はなかった。逆に民族音楽テイストを補う為、バリの伝統曲のメロディーにアレンジを加え、ギター・ソロとして演奏した程だ。

では、あのときの曲をバリ人が演奏したら「民族音楽」になるのか?前述の通り、バリの楽団には古典的手法を踏襲した上での現代曲を演奏する楽団も多いが、これとは別に、毎年のように芸術専門学校の卒業制作では伝統的な表現に縛られない前衛的な曲が発表されている。これらの曲は「コンテンポレール(勿論、コンテンポラリーの意味である)」と呼ばれ、ガムランのジャンルのバリエーションとして定着しつつある(個人的には大嫌いであるが)。観光客向けの公演でもこれら「コンテンポレール」な曲を演奏する楽団もある。

あ、思い出したぞ。同じフェスティバルで、ガムラン音楽の研究者としては第一人者である著名な西洋人(本人の名誉の為に名前は秘す)がガムラン用の現代曲を作曲して提供したが、演奏を担当することになった現地楽団のメンバーが、リハーサル段階で、「こんな曲、演奏したくない」と、次から次へとリタイアした、という話を(リタイアした本人から)聞いた。特定民族のオーセンティックな演奏家に受け入れられない音楽は、演奏家にとっての自国民族楽器を使用することを前提に作曲されていたとしても民族音楽とは言えないだろう。


う~ん、なんだかおぼろげながらも「民族音楽」の俺の中での定義が決まりつつあるぞ…

とりあえず、だ。民族楽器を使用していたとしても、その民族が「こんなん、ウチらの音楽じゃねぇ」と言ってしまえば民族音楽ではない、というところか…


ま、そんなゴタクはさて置くとしても、この作品が「民族音楽」であろうとなかろうと、奏でられている内容が掛け値なしに素晴らしいことは間違いない。


あまりにも凄い内容なので、全曲解説をしてみよう。

1曲目。チャンゴ、ケンガリ、プクなどの打楽器を使用した、いわゆるサムルノリ、もしくはプンムルノリに近いフォーマットにフリー・スタイルのアコースティック・ベースが乗り、女性の歌い手が強力なビブラートを多用して力強く謳いあげる、という超強烈なもの。もの凄い気迫。これが15分弱続く。どことなく、King CrimsonのSailor's Taleに似た雰囲気を漂わせる。

2曲目は同じ女性の歌い手とベース、そしてチャンゴが絶妙なコンビネーションを見せる小品。要所で楔のように打ち込まれるチャンゴのプレイが印象的。

3曲目は1曲目と同じフォーマットで演奏されているようだ。どうやら元になっている曲はアリランのようだ。要所では男性のコーラス(多分、楽器奏者)も唱和している。

4曲目。これは凄いぞ。ベース、チャンゴをバックに、ピリ(ダブルリードの笛)がこれでもかとビブラートをかけて10分弱を全くテンション落とす事無く吹きまくる。

そして5曲目でアルバムは大団円を迎える。演奏のフォーマットは1、3曲目と同じようだ。感情を爆発させるような局面は1曲目に比べると少なめだが、内に秘める情念がひしひしと伝わってくる。


全て聴き終わったときは、もうぐったりだ。アドレナリン大放出。凄い。


通常、というか多くの場合、我々が「民族音楽」もしくはそれに順ずる音楽を聴く場合はそこに「癒し」なるものを求める風潮がある。しかし、この作品に「癒し」を求めるのは到底不可能である。これは悪い意味で言っているのではない。むしろ、その逆だ。全編を通して音の存在感が聞き流せない程に強く、強靭だからだ。その大きな要素はアルバムを横溢する強烈な情念。また、民族音楽にありがちなドローン(通奏低音)が皆無であるのもその理由の一つに挙げられるであろう。前述の通り、ベーシストも演奏に加わっており、なかなか自由度の高い独創的なプレイも披露しているが、残念ながら伝統音楽側に飲み込まれてしまっている感は否めない。それほどまでに、この作品で伝統楽器を演奏している音楽家が持っている魂は「熱い」のだ。乱暴にも、フリー・ジャズとして聴いても凄い。


残念ながらこの作品、韓国のレーベルからのリリースのようで、日本で入手するのは難しいかもしれない。が、もし見かけたら、絶対に「買い」である。


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 3

石原茂和

これは聴いてみたいですね.
韓国は,フリージャズの導入と,自国の民族音楽の再評価機運の高まりとが同時に進行したようで,このような幸運な融合があったのではないでしょうか.すばらしいことです.

さて,昨日の,“文化的搾取は許さん”と,今日の“何が民族音楽なのか”は,おっさんの我々が青臭く(失礼)議論する価値がある話題だと思います.

例えば以前書きましたように,コダーイやバルトークのように,民族音楽をやろうとはしていないが,民族音楽に取材した音楽はいいのかわるいのか.私の見方からすれば,ストラクチャーに関わるところまで民族音楽に立脚しているのでOK.

一番悪いケースは明白かもしれません.自分たちの曲のストラクチャーを全然変えずに,サンプリングだけして効果音としてはめているものです.これは搾取に近いでしょう.

この前の話題の,Talking Heads Remain in Lightはどうなのか.
民族音楽であるとは全くうたっていない.リズムは,Fela Kutiから採譜したようなリズム.ロックという音楽のカテゴリーは,確実に広くした.Fela Kutiも再評価された.許せる範囲かなあ.

by 石原茂和 (2009-03-12 14:01) 

石原茂和

いろいろググってみたのですが,
これの手がかりがまったく掴めない...
韓国フリージャズの有名な人の作品リストは
見たのですが,載っていないです.

神命ってググると,なにやら温泉とか健康食品とか
ばかりでてくるし.orz

ジャケ裏とかに,なにか情報ないですか.
やってるひとの,ローマ字読みだけでもわかれば
手がかりになりそうです.



by 石原茂和 (2009-03-13 11:19) 

lagu

一番悪いケースには全面同意。
例えば、イラン国営放送を録音したものを曲にはめ込み、Persian Loveという曲に仕立て上げてしまったHolger Czykay、出ている結果は見事なのですが、その姿勢には疑問を持たざるを得ません。
Durutti Columも似たようなことをやっています。実際に演奏されている内容は見事でギターに唯一無二の雰囲気もあるだけに残念。個人的には大好きなのですが…
最悪だったのはBrian EnoとDavid Byrnの、共作、一般には名盤とされているMy Life in the Bush of Goastですね。収録されているQu'ranという曲は、まんまコーランをぶつ切りにし、なんとなく中近東っぽいメロディーにちりばめる、という、安易かつ非常識極まりないもの。さすがに再版時にはカットされていました。

これらは、「他人の力を拝借してでも作品の完成度を上げたい」という、貪欲さの表れなのでしょうが、音響面の面白さだけに着眼し、流用する姿勢にははっきりと「No!」です。創造力不足を補うために引っ張り出された民族文化にとってはいい迷惑でしょう。

実は私自身も、依頼を受け、あるコンテンポラリー・ダンスの音楽を作成するにあたり、バリのキドゥン(ご詠歌、かな?)を使ったことがあります。が、このとき使った楽器はシンセサイザーのみでしたが、作曲手法、音階等はバリの形式に極力則ったものでした。曲調も出来るだけバリの民族音楽に近づけたつもりです。私自身はバリの音楽に愛情を感じていますし、流用させてもらうに当たっては敬意を払って作品作りに臨んだつもりですが…これもある意味搾取と言われても反論できない部分はありますね。

自分の行いを庇護するようで若干の心苦しさは禁じ得ませんが、異文化を作品作りに流用する場合は、最低でもその文化に対する一定の理解、そして何よりも敬意を払うことが必須条件である、と思っています。

by lagu (2009-03-13 19:25) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

チベットの仏教音楽TUBEWAY ARMY ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。