Babylon Mood / Munir Bechir and His Quartet [民族音楽]
暑いんですよねぇ。ごまかし様も無いほど。打ち水もあっという間に蒸発し、チェイサーの氷もすぐ溶ける。こんな過酷な気象条件の時にアンビエント系の音を聴いても気力は萎えるばかり。かといってドゥーム・メタルなんか聴いていたら命取り。どうにか気力を犠牲にせずに清涼感を感じさせる音楽が無いものか、と、思いを巡らせていたら、思い当たりました。そう、これこれ。いやぁ、これは涼しいです。
Babylon Mood / Munir Bechir and His Quartet
以前も取り上げたことのある、アラブ音楽の巨匠にして弦楽器、ウードの達人、Munir Bechir率いる楽団の作品集。発表時期は・・・CDを倉庫の奥にしまってしまったのでちょっと今すぐは解らないが、たしかレバノンのレコード会社から発売されていたと思うので、レバノンでの活動時期を考えると録音は1960年代だと思われる。それにしてもなんて素敵なジャケットなんだろう!
この作品、Munir Bechirの作品としては珍しく、ソロ名義ではなく、Munir Bechir and His Quartetというバンド名義である。収録内容はと言えば、注意深く、そして情感たっぷりに紡ぎ出されるMunir Beshirの、時として哲学的雰囲気を漂わせ、時として軽妙なウードを、バンドのメンバー達が様々なパーカッションやネイ、ハンマー・ダルシマーなど、アラブ音楽で使用されるおなじみの楽器群を駆使し、絶妙の間を持ってサポートするというもの。しかし、Munir Bechirの独壇場というわけではなく、Munir Bechirも他のメンバーに華を持たせるように、一歩引いた演奏を行う局面、他のメンバーにソロを任せる局面もある。中にはMunir Bechir本人が演奏に参加していない曲すらある。
「アラブ音楽が清涼感を感じさせる?本当かよ?」と、思う向きもあるかもしれない。だが、本当なんだよ。これを聴いてみればわかる。
この曲に限らず、アルバムできかれるのは、ニュアンス豊かなソリストのプレイに細心の注意を払いつつ慎重にサポートしながら、音圧の低下に過敏に反応せずに、ソリストの次の手を待つ、過度に詰め込みすぎない音。押し付けがましいメロディーやアンサンブルは、最後の一曲を除いて聴かれない。その最後の一曲の鮮やかなメロディーも開放感があり、実にニュアンスに満ちており、気がつくとリピートしてしまう。
そしてこのアルバムをいっそう魅力的にしているのは、数曲でかけられている過剰なまでのリバーブとディレイ。このわざとらしいとも言える音響処理は実に効果的で、ひんやり感に拍車をかける。もう、ほとんどダブ。
忘れてはならないのは、このような音響処理は、サスティーンの少ない楽器がほとんどのアンサンブルだったからこそ、そして、サスティーンの長い楽器であっても、音の『間』を充分に考えてアンサンブルがなされているからこそ絶大な効果が出ている、ということだ。そのことを証明するかのように、一曲、Munir Beshirの紡ぎ出すフレーズとパーカッションの音が比較的高速で絶え間なく連続的に続く曲があるが、この曲においてはほとんどリバーブはかけられていない。もし、あの曲に深いリバーブなんかかけていたら、音像が曖昧になってしまっていただろう。この点において、この作品作りに携わったエンジニアのアイデアと判断は非常に的確である、と言える。
作品全体が醸し出す雰囲気は・・・そりゃ、あなた。ジャケットのデザインとアルバム・タイトルを見れば解るでしょう、なんつったって、バビロン・ムードですよ、バビロン・ムード!そりゃあもうエキゾチック。これがエキゾチックじゃなくて、何がエキゾチックなのかという程にエキゾチック。
察するに、この作品に収録されている曲のほとんどは、伝統的手法を踏襲しながらも、かなり創造力を働かせて創作されたものだと思われる。一部の曲名からもそのことが推察出来るが、我々が求めているステレオタイプなアラブ音楽のイメージにジャスト・ミートだ。これはMunir Bechirの術中に見事にはまった、としか言いようが無いが、そんな難しい事考えず、この音に身を任せるのが得策だ。音質も、昔の録音にしては充分鑑賞に耐えるクオリティ。
と、いうわけなので、頭の柔らかい民族音楽愛好家、もしくは「民族音楽に興味はあるが何を聴いたらいいのか解らない」という、探究心のある者に強力に推奨する。一切のこだわりを捨てて聴いてみて欲しい。
しかし、この作品、前述の通りレバノンのレコード会社からの発売で、おそらく日本とは取引が無く、俺自身もショップでは一度しか見た事が無い。勿論、その一枚も俺が購入してしまった・・・ということは、入手しようとしたらとんでもない手間がかかりそうだな、と思っていたら、なんと、アマゾンがMP3のダウンロード販売をしている事が判明!おまけにフル・アルバムで¥600ってどーいうことよ!?
重複するが、音楽ジャンルにこだわらない、涼しい気分になれる音を求めている人には責任推奨。
残念なことに、AmazonのMP3ストアのリンクはここには貼れないようなので、興味を持った人はAmazon.co.jpを自力で探してみて欲しい。Babylon Moodというキーワードで検索すると、トップに出てきます。
Babylon Mood / Munir Bechir and His Quartet
以前も取り上げたことのある、アラブ音楽の巨匠にして弦楽器、ウードの達人、Munir Bechir率いる楽団の作品集。発表時期は・・・CDを倉庫の奥にしまってしまったのでちょっと今すぐは解らないが、たしかレバノンのレコード会社から発売されていたと思うので、レバノンでの活動時期を考えると録音は1960年代だと思われる。それにしてもなんて素敵なジャケットなんだろう!
この作品、Munir Bechirの作品としては珍しく、ソロ名義ではなく、Munir Bechir and His Quartetというバンド名義である。収録内容はと言えば、注意深く、そして情感たっぷりに紡ぎ出されるMunir Beshirの、時として哲学的雰囲気を漂わせ、時として軽妙なウードを、バンドのメンバー達が様々なパーカッションやネイ、ハンマー・ダルシマーなど、アラブ音楽で使用されるおなじみの楽器群を駆使し、絶妙の間を持ってサポートするというもの。しかし、Munir Bechirの独壇場というわけではなく、Munir Bechirも他のメンバーに華を持たせるように、一歩引いた演奏を行う局面、他のメンバーにソロを任せる局面もある。中にはMunir Bechir本人が演奏に参加していない曲すらある。
「アラブ音楽が清涼感を感じさせる?本当かよ?」と、思う向きもあるかもしれない。だが、本当なんだよ。これを聴いてみればわかる。
この曲に限らず、アルバムできかれるのは、ニュアンス豊かなソリストのプレイに細心の注意を払いつつ慎重にサポートしながら、音圧の低下に過敏に反応せずに、ソリストの次の手を待つ、過度に詰め込みすぎない音。押し付けがましいメロディーやアンサンブルは、最後の一曲を除いて聴かれない。その最後の一曲の鮮やかなメロディーも開放感があり、実にニュアンスに満ちており、気がつくとリピートしてしまう。
そしてこのアルバムをいっそう魅力的にしているのは、数曲でかけられている過剰なまでのリバーブとディレイ。このわざとらしいとも言える音響処理は実に効果的で、ひんやり感に拍車をかける。もう、ほとんどダブ。
忘れてはならないのは、このような音響処理は、サスティーンの少ない楽器がほとんどのアンサンブルだったからこそ、そして、サスティーンの長い楽器であっても、音の『間』を充分に考えてアンサンブルがなされているからこそ絶大な効果が出ている、ということだ。そのことを証明するかのように、一曲、Munir Beshirの紡ぎ出すフレーズとパーカッションの音が比較的高速で絶え間なく連続的に続く曲があるが、この曲においてはほとんどリバーブはかけられていない。もし、あの曲に深いリバーブなんかかけていたら、音像が曖昧になってしまっていただろう。この点において、この作品作りに携わったエンジニアのアイデアと判断は非常に的確である、と言える。
作品全体が醸し出す雰囲気は・・・そりゃ、あなた。ジャケットのデザインとアルバム・タイトルを見れば解るでしょう、なんつったって、バビロン・ムードですよ、バビロン・ムード!そりゃあもうエキゾチック。これがエキゾチックじゃなくて、何がエキゾチックなのかという程にエキゾチック。
察するに、この作品に収録されている曲のほとんどは、伝統的手法を踏襲しながらも、かなり創造力を働かせて創作されたものだと思われる。一部の曲名からもそのことが推察出来るが、我々が求めているステレオタイプなアラブ音楽のイメージにジャスト・ミートだ。これはMunir Bechirの術中に見事にはまった、としか言いようが無いが、そんな難しい事考えず、この音に身を任せるのが得策だ。音質も、昔の録音にしては充分鑑賞に耐えるクオリティ。
と、いうわけなので、頭の柔らかい民族音楽愛好家、もしくは「民族音楽に興味はあるが何を聴いたらいいのか解らない」という、探究心のある者に強力に推奨する。一切のこだわりを捨てて聴いてみて欲しい。
しかし、この作品、前述の通りレバノンのレコード会社からの発売で、おそらく日本とは取引が無く、俺自身もショップでは一度しか見た事が無い。勿論、その一枚も俺が購入してしまった・・・ということは、入手しようとしたらとんでもない手間がかかりそうだな、と思っていたら、なんと、アマゾンがMP3のダウンロード販売をしている事が判明!おまけにフル・アルバムで¥600ってどーいうことよ!?
重複するが、音楽ジャンルにこだわらない、涼しい気分になれる音を求めている人には責任推奨。
残念なことに、AmazonのMP3ストアのリンクはここには貼れないようなので、興味を持った人はAmazon.co.jpを自力で探してみて欲しい。Babylon Moodというキーワードで検索すると、トップに出てきます。
世界遺産、古琴 [民族音楽]
風邪ひいた。
昨日、やたらくしゃみが出るので、「花粉症か?」と思っていたのだが、明け方寒気で目が覚めた。すぐさま薬を飲んだが、なんだかぼーっとしている。これから熱が出そうな予感…
ああ、外は桜が満開だってのに…
毎年、桜の時期になると俺はGunung Jatiの『耽美と陶酔のガムラン』を繰り返し聴く。以前、神田川の上流近くに住んでいた時には、桜の時期になるとちょっと遠回りになる神田川沿いに通勤ルートを変えて、iPodでSekar MasやLegong Lasemを聴きつつ、両岸に咲く桜を愛でながら自宅から最寄り駅まで往復したものである。特に散り始めの桜の美しさと、時代を経て枯れきったGunung Jatiの演奏するSemar Pegulinganの音色との相乗効果は信じがたい程で、それはもう、狂おしいまでに美しく、はらはらと舞い落ちる花弁の中、ゆっくりと歩みを進め、時として立ち止まって桜の木を見上げていたものである。
実はこれとは別に、桜の木の下を歩くときにお気に入りのCDがある。
中国の古琴~姚公白
古琴は非常に起源が古い中国の楽器で、書画などと並んで文人のたしなみとされたらしい。で、あるからして、当然独奏が基本である。元は単に琴と呼んでいたらしいが、後に様々な種類の琴が作られるようになり、これらと区別するために古琴と呼ぶようになったそうだ。古琴は楽器構造もさることながら、その音楽文化は西洋音楽の影響を全く受けずに現代に受け継がれているそうで、世界遺産にも登録されている。
肝心のこの作品の内容であるが、前述の通り独奏である。意外にも太くて膨らみのある音色。「文人のたしなみ」として発展した、ということが物語るように、非常に思慮深い演奏。要所ではハンマリング・オンやハーモニクス、弦を引っ張って離し、楽器本体にぶつけて強いアタック音を出したりと、音色にバリエーションを与えている。が、一聴するとアドリブのように聴こえるこれらは演奏者の自由裁量で行っているのではなく、曲によって厳密に奏法が決められているようである。たしかに世界遺産が自由に形を変えてしまうのでは遺産にならないわけであって、これは当然といえば当然である。
曲は全てが素晴らしい。演奏も素晴らしい。時として流麗、時として軽妙。音の散文詩といった印象で、全体を通して格調の高さを感じさせる。かといって(聴いている分には)敷居が高い印象は無く、普通に聴いていて心地よく、何度でも繰り返して聴ける。このCDに出会ってから古琴に興味を持ち、何枚か古琴のCDを購入したが、俺はこの作品が一番好きである。
実は数年前、本気でこの楽器をやってみたく、何軒か中国の輸入楽器を扱う店をはしごした事があるのだが、数台発見した古琴は弦が張ってなかったり、張ってあっても一部が欠損していたり、楽器自体が壊れていたり、と、一台として納得のいくコンディションの物が無く、その時は購入を諦めた。が、とりあえず音を出してみたく、弦が一部欠損している個体を弾かせてもらった。
実際に触ってみて驚いたことがいくつか。先ず、調弦が非合理的なほど難しい。一応、各弦毎に糸巻きもあるのだが、これは微調整しか出来ない。弦を支点に結んだ時点でほぼ完全に調律されていないといけないのである。これは至難の業である。さらに、一般の琴と異なり、コマが無い。つまり、指で弦を押さえ、音程を確保する構造であり、当然、1本の弦に無数の音程が割り当てられている。さらに、演奏者から見て手前が高音弦、奥が低音弦。もう、大混乱であった。が、なかなか面白く、楽器屋の迷惑も顧みずしばらくあーでもないこーでもないと試行錯誤していると、中国人の店長が話しかけてきた。
「そんなに古琴をやってみたい?他にもお勧めの楽器があるんだけど…」
「いや、俺がやってみたいのは古琴だけです」
「二胡はウチでも教えられるんだけど…古琴はあまり人気がないんですよね。古琴を少しでも演奏できる人は関東近郊には48人しかいません」
「なんで全部把握できるんですか?」
「教えられる先生が二人しか居なくて、その先生の生徒の数が48人だから」
「あ~、そうか。自己流は認められないからですね」
「今、ウチには完璧なコンディションの古琴は無いんだけど、今度仕入れに行ったときに調達してきますよ」
「頼みます。いいのが手に入ったら連絡を下さい」
と、言ったきり2,3年経つが、まだ連絡が無い…
昨日、やたらくしゃみが出るので、「花粉症か?」と思っていたのだが、明け方寒気で目が覚めた。すぐさま薬を飲んだが、なんだかぼーっとしている。これから熱が出そうな予感…
ああ、外は桜が満開だってのに…
毎年、桜の時期になると俺はGunung Jatiの『耽美と陶酔のガムラン』を繰り返し聴く。以前、神田川の上流近くに住んでいた時には、桜の時期になるとちょっと遠回りになる神田川沿いに通勤ルートを変えて、iPodでSekar MasやLegong Lasemを聴きつつ、両岸に咲く桜を愛でながら自宅から最寄り駅まで往復したものである。特に散り始めの桜の美しさと、時代を経て枯れきったGunung Jatiの演奏するSemar Pegulinganの音色との相乗効果は信じがたい程で、それはもう、狂おしいまでに美しく、はらはらと舞い落ちる花弁の中、ゆっくりと歩みを進め、時として立ち止まって桜の木を見上げていたものである。
実はこれとは別に、桜の木の下を歩くときにお気に入りのCDがある。
中国の古琴~姚公白
古琴は非常に起源が古い中国の楽器で、書画などと並んで文人のたしなみとされたらしい。で、あるからして、当然独奏が基本である。元は単に琴と呼んでいたらしいが、後に様々な種類の琴が作られるようになり、これらと区別するために古琴と呼ぶようになったそうだ。古琴は楽器構造もさることながら、その音楽文化は西洋音楽の影響を全く受けずに現代に受け継がれているそうで、世界遺産にも登録されている。
肝心のこの作品の内容であるが、前述の通り独奏である。意外にも太くて膨らみのある音色。「文人のたしなみ」として発展した、ということが物語るように、非常に思慮深い演奏。要所ではハンマリング・オンやハーモニクス、弦を引っ張って離し、楽器本体にぶつけて強いアタック音を出したりと、音色にバリエーションを与えている。が、一聴するとアドリブのように聴こえるこれらは演奏者の自由裁量で行っているのではなく、曲によって厳密に奏法が決められているようである。たしかに世界遺産が自由に形を変えてしまうのでは遺産にならないわけであって、これは当然といえば当然である。
曲は全てが素晴らしい。演奏も素晴らしい。時として流麗、時として軽妙。音の散文詩といった印象で、全体を通して格調の高さを感じさせる。かといって(聴いている分には)敷居が高い印象は無く、普通に聴いていて心地よく、何度でも繰り返して聴ける。このCDに出会ってから古琴に興味を持ち、何枚か古琴のCDを購入したが、俺はこの作品が一番好きである。
実は数年前、本気でこの楽器をやってみたく、何軒か中国の輸入楽器を扱う店をはしごした事があるのだが、数台発見した古琴は弦が張ってなかったり、張ってあっても一部が欠損していたり、楽器自体が壊れていたり、と、一台として納得のいくコンディションの物が無く、その時は購入を諦めた。が、とりあえず音を出してみたく、弦が一部欠損している個体を弾かせてもらった。
実際に触ってみて驚いたことがいくつか。先ず、調弦が非合理的なほど難しい。一応、各弦毎に糸巻きもあるのだが、これは微調整しか出来ない。弦を支点に結んだ時点でほぼ完全に調律されていないといけないのである。これは至難の業である。さらに、一般の琴と異なり、コマが無い。つまり、指で弦を押さえ、音程を確保する構造であり、当然、1本の弦に無数の音程が割り当てられている。さらに、演奏者から見て手前が高音弦、奥が低音弦。もう、大混乱であった。が、なかなか面白く、楽器屋の迷惑も顧みずしばらくあーでもないこーでもないと試行錯誤していると、中国人の店長が話しかけてきた。
「そんなに古琴をやってみたい?他にもお勧めの楽器があるんだけど…」
「いや、俺がやってみたいのは古琴だけです」
「二胡はウチでも教えられるんだけど…古琴はあまり人気がないんですよね。古琴を少しでも演奏できる人は関東近郊には48人しかいません」
「なんで全部把握できるんですか?」
「教えられる先生が二人しか居なくて、その先生の生徒の数が48人だから」
「あ~、そうか。自己流は認められないからですね」
「今、ウチには完璧なコンディションの古琴は無いんだけど、今度仕入れに行ったときに調達してきますよ」
「頼みます。いいのが手に入ったら連絡を下さい」
と、言ったきり2,3年経つが、まだ連絡が無い…
神命 (韓国の民族音楽 meets フリー・ジャズ) [民族音楽]
10数年前、バリに長期滞在中、俺が滞在していたロスメン(民宿)に親しくしている友人が遊びに来た。折悪しく、丁度マンディ(水浴び)をしている最中だったので、「そのへんにあるCDでも聴いて待っててくれ」とバスルームから呼びかけた。
ところが、部屋から聞こえてきた音楽は俺が今まで聴いたこともないようなインパクトのあるものだった。少なくとも俺が所持しているものではない。どうやら友人が持参したCDをかけているようだ。そのあまりの強烈さに驚き、水浴びを中断、バスタオルを腰に巻くのももどかしく部屋に戻り、「これはなんだ?」と友人に詰め寄った。
それがこの作品である。
神命
幸いにも日本で探しまくって偶然発見、当然購入した。
この作品、韓国の伝統楽器を演奏する音楽家とフリー・ジャズのベーシストとのコラボレーションのようで、これを「民族音楽」と言ってしまうことには若干の疑問を禁じえない。
では、どこで「民族音楽」と「それ以外」の線を引くか、であるが、これはなかなか難しい。
日本の某能楽師のコマーシャリズムに乗った最近の活動は民族音楽か?いや、あれは能楽で使われる楽器の音響的斬新さと能楽師の時流に乗った知名度を利用しただけのヒーリング・ミュージック、もしくはフュージョン(死語?)だ。民族音楽からは完全に除外することに異論を唱えるものはいないだろう。
では、Jon MacLauhglinがZakir Hussainと立ち上げたShakti。これは演奏の殆どがインドのネイティブな民族楽器奏者であるが、演奏している曲がインドの伝統的手法に則った音楽ではない。Jon MacLauhglinが目指したのはジャズとインド音楽との融合だ。ゆえにこれも民族音楽からは除外だろう。
しかし、ここに待ったをかける俺もいる。バリのガムランだって古典的手法によって作曲された現代曲は多い。これらは「民族音楽」ではないのか?いや、やはり「民族音楽」であろう。使用している楽器、作曲手法がバリの伝統的なものであり、作曲者がバリのネイティブだからだ。
ちょっと待った!数年前に、バリのガムランにエレクトリック・ギターを加えた編成が若者を中心に流行っていると聞いた。あれは民族音楽ではないのか?
民族的に音楽する者として(その『民族』なのが自国の民族でないのが俺の大きなコンプレックスなのだが)、俺自身の事を振り返って考えてみよう。例えば、数年前に日本のプログレシブ・ロックを演奏するバンドから依頼を受け、用意されていた曲に民族楽器でレコーディングに参加した。俺が演奏したのは殆どがバリの伝統的なメロディーだったが、あれは明らかに「民族音楽テイストを取り入れたプログレ」であって、決して民族音楽ではない。
また、随分前になるが、日本の某芸能集団がバリで行われたフェスティバルに招聘された際に客演依頼を受け、ガムランとキーボード、ドラムで演奏することを前提として作曲された現代曲にエレクトリック・ギターのアレンジを施して演奏したことがある。あのときの俺は「民族音楽を演奏している」という意識はなかった。逆に民族音楽テイストを補う為、バリの伝統曲のメロディーにアレンジを加え、ギター・ソロとして演奏した程だ。
では、あのときの曲をバリ人が演奏したら「民族音楽」になるのか?前述の通り、バリの楽団には古典的手法を踏襲した上での現代曲を演奏する楽団も多いが、これとは別に、毎年のように芸術専門学校の卒業制作では伝統的な表現に縛られない前衛的な曲が発表されている。これらの曲は「コンテンポレール(勿論、コンテンポラリーの意味である)」と呼ばれ、ガムランのジャンルのバリエーションとして定着しつつある(個人的には大嫌いであるが)。観光客向けの公演でもこれら「コンテンポレール」な曲を演奏する楽団もある。
あ、思い出したぞ。同じフェスティバルで、ガムラン音楽の研究者としては第一人者である著名な西洋人(本人の名誉の為に名前は秘す)がガムラン用の現代曲を作曲して提供したが、演奏を担当することになった現地楽団のメンバーが、リハーサル段階で、「こんな曲、演奏したくない」と、次から次へとリタイアした、という話を(リタイアした本人から)聞いた。特定民族のオーセンティックな演奏家に受け入れられない音楽は、演奏家にとっての自国民族楽器を使用することを前提に作曲されていたとしても民族音楽とは言えないだろう。
う~ん、なんだかおぼろげながらも「民族音楽」の俺の中での定義が決まりつつあるぞ…
とりあえず、だ。民族楽器を使用していたとしても、その民族が「こんなん、ウチらの音楽じゃねぇ」と言ってしまえば民族音楽ではない、というところか…
ま、そんなゴタクはさて置くとしても、この作品が「民族音楽」であろうとなかろうと、奏でられている内容が掛け値なしに素晴らしいことは間違いない。
あまりにも凄い内容なので、全曲解説をしてみよう。
1曲目。チャンゴ、ケンガリ、プクなどの打楽器を使用した、いわゆるサムルノリ、もしくはプンムルノリに近いフォーマットにフリー・スタイルのアコースティック・ベースが乗り、女性の歌い手が強力なビブラートを多用して力強く謳いあげる、という超強烈なもの。もの凄い気迫。これが15分弱続く。どことなく、King CrimsonのSailor's Taleに似た雰囲気を漂わせる。
2曲目は同じ女性の歌い手とベース、そしてチャンゴが絶妙なコンビネーションを見せる小品。要所で楔のように打ち込まれるチャンゴのプレイが印象的。
3曲目は1曲目と同じフォーマットで演奏されているようだ。どうやら元になっている曲はアリランのようだ。要所では男性のコーラス(多分、楽器奏者)も唱和している。
4曲目。これは凄いぞ。ベース、チャンゴをバックに、ピリ(ダブルリードの笛)がこれでもかとビブラートをかけて10分弱を全くテンション落とす事無く吹きまくる。
そして5曲目でアルバムは大団円を迎える。演奏のフォーマットは1、3曲目と同じようだ。感情を爆発させるような局面は1曲目に比べると少なめだが、内に秘める情念がひしひしと伝わってくる。
全て聴き終わったときは、もうぐったりだ。アドレナリン大放出。凄い。
通常、というか多くの場合、我々が「民族音楽」もしくはそれに順ずる音楽を聴く場合はそこに「癒し」なるものを求める風潮がある。しかし、この作品に「癒し」を求めるのは到底不可能である。これは悪い意味で言っているのではない。むしろ、その逆だ。全編を通して音の存在感が聞き流せない程に強く、強靭だからだ。その大きな要素はアルバムを横溢する強烈な情念。また、民族音楽にありがちなドローン(通奏低音)が皆無であるのもその理由の一つに挙げられるであろう。前述の通り、ベーシストも演奏に加わっており、なかなか自由度の高い独創的なプレイも披露しているが、残念ながら伝統音楽側に飲み込まれてしまっている感は否めない。それほどまでに、この作品で伝統楽器を演奏している音楽家が持っている魂は「熱い」のだ。乱暴にも、フリー・ジャズとして聴いても凄い。
残念ながらこの作品、韓国のレーベルからのリリースのようで、日本で入手するのは難しいかもしれない。が、もし見かけたら、絶対に「買い」である。
ところが、部屋から聞こえてきた音楽は俺が今まで聴いたこともないようなインパクトのあるものだった。少なくとも俺が所持しているものではない。どうやら友人が持参したCDをかけているようだ。そのあまりの強烈さに驚き、水浴びを中断、バスタオルを腰に巻くのももどかしく部屋に戻り、「これはなんだ?」と友人に詰め寄った。
それがこの作品である。
神命
幸いにも日本で探しまくって偶然発見、当然購入した。
この作品、韓国の伝統楽器を演奏する音楽家とフリー・ジャズのベーシストとのコラボレーションのようで、これを「民族音楽」と言ってしまうことには若干の疑問を禁じえない。
では、どこで「民族音楽」と「それ以外」の線を引くか、であるが、これはなかなか難しい。
日本の某能楽師のコマーシャリズムに乗った最近の活動は民族音楽か?いや、あれは能楽で使われる楽器の音響的斬新さと能楽師の時流に乗った知名度を利用しただけのヒーリング・ミュージック、もしくはフュージョン(死語?)だ。民族音楽からは完全に除外することに異論を唱えるものはいないだろう。
では、Jon MacLauhglinがZakir Hussainと立ち上げたShakti。これは演奏の殆どがインドのネイティブな民族楽器奏者であるが、演奏している曲がインドの伝統的手法に則った音楽ではない。Jon MacLauhglinが目指したのはジャズとインド音楽との融合だ。ゆえにこれも民族音楽からは除外だろう。
しかし、ここに待ったをかける俺もいる。バリのガムランだって古典的手法によって作曲された現代曲は多い。これらは「民族音楽」ではないのか?いや、やはり「民族音楽」であろう。使用している楽器、作曲手法がバリの伝統的なものであり、作曲者がバリのネイティブだからだ。
ちょっと待った!数年前に、バリのガムランにエレクトリック・ギターを加えた編成が若者を中心に流行っていると聞いた。あれは民族音楽ではないのか?
民族的に音楽する者として(その『民族』なのが自国の民族でないのが俺の大きなコンプレックスなのだが)、俺自身の事を振り返って考えてみよう。例えば、数年前に日本のプログレシブ・ロックを演奏するバンドから依頼を受け、用意されていた曲に民族楽器でレコーディングに参加した。俺が演奏したのは殆どがバリの伝統的なメロディーだったが、あれは明らかに「民族音楽テイストを取り入れたプログレ」であって、決して民族音楽ではない。
また、随分前になるが、日本の某芸能集団がバリで行われたフェスティバルに招聘された際に客演依頼を受け、ガムランとキーボード、ドラムで演奏することを前提として作曲された現代曲にエレクトリック・ギターのアレンジを施して演奏したことがある。あのときの俺は「民族音楽を演奏している」という意識はなかった。逆に民族音楽テイストを補う為、バリの伝統曲のメロディーにアレンジを加え、ギター・ソロとして演奏した程だ。
では、あのときの曲をバリ人が演奏したら「民族音楽」になるのか?前述の通り、バリの楽団には古典的手法を踏襲した上での現代曲を演奏する楽団も多いが、これとは別に、毎年のように芸術専門学校の卒業制作では伝統的な表現に縛られない前衛的な曲が発表されている。これらの曲は「コンテンポレール(勿論、コンテンポラリーの意味である)」と呼ばれ、ガムランのジャンルのバリエーションとして定着しつつある(個人的には大嫌いであるが)。観光客向けの公演でもこれら「コンテンポレール」な曲を演奏する楽団もある。
あ、思い出したぞ。同じフェスティバルで、ガムラン音楽の研究者としては第一人者である著名な西洋人(本人の名誉の為に名前は秘す)がガムラン用の現代曲を作曲して提供したが、演奏を担当することになった現地楽団のメンバーが、リハーサル段階で、「こんな曲、演奏したくない」と、次から次へとリタイアした、という話を(リタイアした本人から)聞いた。特定民族のオーセンティックな演奏家に受け入れられない音楽は、演奏家にとっての自国民族楽器を使用することを前提に作曲されていたとしても民族音楽とは言えないだろう。
う~ん、なんだかおぼろげながらも「民族音楽」の俺の中での定義が決まりつつあるぞ…
とりあえず、だ。民族楽器を使用していたとしても、その民族が「こんなん、ウチらの音楽じゃねぇ」と言ってしまえば民族音楽ではない、というところか…
ま、そんなゴタクはさて置くとしても、この作品が「民族音楽」であろうとなかろうと、奏でられている内容が掛け値なしに素晴らしいことは間違いない。
あまりにも凄い内容なので、全曲解説をしてみよう。
1曲目。チャンゴ、ケンガリ、プクなどの打楽器を使用した、いわゆるサムルノリ、もしくはプンムルノリに近いフォーマットにフリー・スタイルのアコースティック・ベースが乗り、女性の歌い手が強力なビブラートを多用して力強く謳いあげる、という超強烈なもの。もの凄い気迫。これが15分弱続く。どことなく、King CrimsonのSailor's Taleに似た雰囲気を漂わせる。
2曲目は同じ女性の歌い手とベース、そしてチャンゴが絶妙なコンビネーションを見せる小品。要所で楔のように打ち込まれるチャンゴのプレイが印象的。
3曲目は1曲目と同じフォーマットで演奏されているようだ。どうやら元になっている曲はアリランのようだ。要所では男性のコーラス(多分、楽器奏者)も唱和している。
4曲目。これは凄いぞ。ベース、チャンゴをバックに、ピリ(ダブルリードの笛)がこれでもかとビブラートをかけて10分弱を全くテンション落とす事無く吹きまくる。
そして5曲目でアルバムは大団円を迎える。演奏のフォーマットは1、3曲目と同じようだ。感情を爆発させるような局面は1曲目に比べると少なめだが、内に秘める情念がひしひしと伝わってくる。
全て聴き終わったときは、もうぐったりだ。アドレナリン大放出。凄い。
通常、というか多くの場合、我々が「民族音楽」もしくはそれに順ずる音楽を聴く場合はそこに「癒し」なるものを求める風潮がある。しかし、この作品に「癒し」を求めるのは到底不可能である。これは悪い意味で言っているのではない。むしろ、その逆だ。全編を通して音の存在感が聞き流せない程に強く、強靭だからだ。その大きな要素はアルバムを横溢する強烈な情念。また、民族音楽にありがちなドローン(通奏低音)が皆無であるのもその理由の一つに挙げられるであろう。前述の通り、ベーシストも演奏に加わっており、なかなか自由度の高い独創的なプレイも披露しているが、残念ながら伝統音楽側に飲み込まれてしまっている感は否めない。それほどまでに、この作品で伝統楽器を演奏している音楽家が持っている魂は「熱い」のだ。乱暴にも、フリー・ジャズとして聴いても凄い。
残念ながらこの作品、韓国のレーベルからのリリースのようで、日本で入手するのは難しいかもしれない。が、もし見かけたら、絶対に「買い」である。
チベットの仏教音楽 [民族音楽]
こういった「作品」(?)をここで扱うのはちょっと勇気が必要なのであるが・・・
Tibetan Buddhism - The Ritual Orchestra and Chants
世界的に有名な民族音楽シリーズ、ノンサッチ・エクスプローラからリリースされた、チベットの密教音楽を収録した歴史的録音のCD化である。収録は1973年、現地録音盤。録音はかのデビッド・ルイストン。この人の仕事はピンキリであるが、これはピンである。
予め断っておくが、これは、いわゆる「お経」であって、娯楽目的の「音楽」ではない。当然、これを聴く者への配慮は無い。にも関わらず、実に音楽的な響きを持っている。
チベットの密教音楽というと、ゲールグ派に特徴的な人間の声とは思えぬ超低音の声明がつとに有名である。この作品でも低音の声明が聞かれるが、びっくりする程ではない。
その代わり、といっては何だが、様々な法具(楽器とは言わない)を使用しての音響は圧倒的に凄い。
つぶやくように淡々と唱和される低音での声明。そこに割って入るかのような各種法具による独特な響き。轟き渡るチベタン・ホルン、カラカラと軽快な音をたてるダマル(人間の頭蓋骨を素材にした両面太鼓)、名前は忘れたが、これまた人間の大腿骨を使用した笛、その他、シンバル状の法具などを使用し、この世のものとは思えない、圧倒的に威厳に満ちた音が奏でられている。
これを「恐ろしい音」と、感じる人も多いだろう。しかし、俺はこの音に身を任せていると、心地よく感じるのだ。
何と言ったらいいのか…こんな厳しい音なのに、心の角が取れて、「癒される」ような気がするのだ。勿論、巷に溢れている陳腐なヒーリング・ミュージックによる表面的な「癒し」とは全く違う。もっと心の奥深くまで到達する「癒し」であり…本当に何と言ったらいいんだろう?この感覚は到底言葉では表現できない。
危険を承知で敢えて言わせてもらうなら、現代音楽の愛好家が聴いたら、かなりの確率で琴線に触れるはずだ。
ただし。
この作品を粗末に扱うと、罰が当たるぞ。
Tibetan Buddhism - The Ritual Orchestra and Chants
世界的に有名な民族音楽シリーズ、ノンサッチ・エクスプローラからリリースされた、チベットの密教音楽を収録した歴史的録音のCD化である。収録は1973年、現地録音盤。録音はかのデビッド・ルイストン。この人の仕事はピンキリであるが、これはピンである。
予め断っておくが、これは、いわゆる「お経」であって、娯楽目的の「音楽」ではない。当然、これを聴く者への配慮は無い。にも関わらず、実に音楽的な響きを持っている。
チベットの密教音楽というと、ゲールグ派に特徴的な人間の声とは思えぬ超低音の声明がつとに有名である。この作品でも低音の声明が聞かれるが、びっくりする程ではない。
その代わり、といっては何だが、様々な法具(楽器とは言わない)を使用しての音響は圧倒的に凄い。
つぶやくように淡々と唱和される低音での声明。そこに割って入るかのような各種法具による独特な響き。轟き渡るチベタン・ホルン、カラカラと軽快な音をたてるダマル(人間の頭蓋骨を素材にした両面太鼓)、名前は忘れたが、これまた人間の大腿骨を使用した笛、その他、シンバル状の法具などを使用し、この世のものとは思えない、圧倒的に威厳に満ちた音が奏でられている。
これを「恐ろしい音」と、感じる人も多いだろう。しかし、俺はこの音に身を任せていると、心地よく感じるのだ。
何と言ったらいいのか…こんな厳しい音なのに、心の角が取れて、「癒される」ような気がするのだ。勿論、巷に溢れている陳腐なヒーリング・ミュージックによる表面的な「癒し」とは全く違う。もっと心の奥深くまで到達する「癒し」であり…本当に何と言ったらいいんだろう?この感覚は到底言葉では表現できない。
危険を承知で敢えて言わせてもらうなら、現代音楽の愛好家が聴いたら、かなりの確率で琴線に触れるはずだ。
ただし。
この作品を粗末に扱うと、罰が当たるぞ。
HARIPRASAD CHAURASIA [民族音楽]
「ガムラン音楽を(ある程度)実践できるようになろう」と、意を決して滞在期限を決めずにバリに渡航したのが確か1995年。実はそれから遡ること2年、一ヶ月程度の中期滞在を続けざまに3回程していたが、たった3ヶ月、それもとぎれとぎれではどうにもならなず、覚悟を決めて1年間日本で資金を稼いでの渡航であった。
当時、インドネシアのノー・ビザでの滞在期限は60日であった(現在は30日に短縮)。つまり、2ヶ月毎にビザを更新すべく一旦出国せねばならなかった。で、俺が出国先に選んでいたのがシンガポールだった。
当時は俺と似たような志を持った者が滞在先近辺に何名かおり、中には午前中の便でシンガポールに行き、夕方の便でバリに戻るような猛者もいたが、俺はシンガポールに行くと「せっかっく来たのだから」と、必ず2泊はしていた。
シンガポールは人種の坩堝だ。メインストリート周辺は青山あたりと雰囲気が良く似ていたが、ちょっと中心部を外れると、華僑、マレー系住民、インド系住民がそれぞれに民族色豊かな街を形成していており、それぞれの地域に独特の雰囲気が漂っており、非常に興味深かった。
特に俺が気に入っていたのはリトル・インディアである。美しいサリーに身を包んだ彫の深い顔立ちの女性達、お香の匂い、極彩色に彩られた建物、店先に並べられた美しいレイ(と、言うのか?)、そしてどこからともなく流れてくる民族調の音楽。これらの要素が俺の五感を刺激し、特に用事がなくとも何時間居ても飽きることは無かった。
で、初めてリトル・インディアに行った折、インドの民族音楽に興味があったので、CDショップに入った。が、事前知識があまり無かったので、(ラビ・シャンカール、ザキール・フセインくらいしか知らなかった)「お勧めのCDを5枚紹介してくれ」と店員に申し出て、購入した中の一枚がこれである。
The Mystical Flute Of HARIPRASAD CHAURASIA
俺はインドの民族音楽についてあれこれ言えるほど詳しくない。CDも4~50枚程度しか所持していない。
話は飛ぶが、たまに、「ガムラン音楽は云々かんぬん」と、全てのガムラン音楽を総括して論じようとする乱暴者を見かける。彼らにとっては「ガムランとは金属打楽器中心のアンサンブル」なのであろう。これはある意味正しいのだが、中には「音階を持ったメタル・パーカッション」くらいの意識の輩も居たりして(音楽業界の一角にたむろする似非ヒーリング・ミュージックを粗製乱造する連中はこの程度の意識の奴が多い、と感じている)文化的側面に目を向けず、音響のみを偏重する傾向は個人的に苦々しく思っている。
誤解なきように断っておくが、俺が言っている「文化的側面」とは、宗教がどうのこうのとか、そんな難しいことではない。ガムランをまっとうな音楽としてとらえ、他民族の伝統文化に敬意を払っているかどうか、というだけの話である。
あえて言わせてもらえば、金属製鍵盤打楽器が中心のガムランだって、ゴン・クビャール、スマル・プグリンガン、プレゴンガン、ゴン・サロン、スロンディン、グンデル・ワヤン、その他諸々の種類があり、それぞれに音響的特長も演奏する曲も違う。さらに金属製鍵盤打楽器を使いながらもそれがアンサンブルの中心にない、もしくは一切金属製鍵盤打楽器を使用しない(場合が多い)ガムランとなると、ティンクリック、ジョゲ・ブンブン、ジェゴグ、グンタン、ガンブー、ゴン・スリン、その他諸々の音楽形態があるのだ。
あれ?何を言いたかったんだっけ?
そうそう、同じようにインドの民族音楽にも様々な種類があって、音響的な特徴も演奏形態も多種多様なはずなのである。であるからして、俺なんぞがインドの民族音楽のCDをここで取り上げる資格なんぞない、と思いつつも、この作品は「インドの民族音楽に造詣が深くない者が聴いても素晴らしい」のである。
HARIPRASAD CHAURASIAはバンスリという横笛の巨匠らしい。おびただしい数の演奏が作品化されている。いくら好きとはいえ、さすがにリリースされている100枚近い(もしかしたらもっとあるのかも…)CDを片っ端から購入することはためらわれ、後に5枚程を勘で選んで購入したが、その中でもこの作品の素晴らしさは(俺にとって)群を抜いている。
この作品は22分、15分、8分の3曲で構成されている。3曲目は時間あわせの為に収録されたと思われ、他の2曲と比較すると若干コンパクトにまとまっている印象であるが、それでも8分もある。
タンブーラ(ドローン専門の弦楽器)に導かれて緩やかに演奏が始まる膨らみのある音色のバンスリ。非常に幻想的な音色、そしてメロディー。しばらくの後に、ZAKIR HUSSAINの奏するタブラが演奏に加わり、曲にリズムが生まれる。曲が進行するにつれ、徐々にスピード感を増してくる。演奏に熱が帯びてくると要所で聴かれるバンスリとタブラの絶妙なコンビネーション。目にも(耳にも)とまらぬ細かいパッセージ、にもかかわらず流麗なメロディー。そして迎える荘厳な収束。
圧倒的な開放感。素晴らしい。
一聴するとフリー・インプロビゼーションっぽくも聴こえるのであるが、その実はメロディーやリズムの展開に特定の制限があり、その制約の上に演奏が成立しているようである。にもかかわらず、この自由度、そして美しい演奏。まさに民族性を超越した音楽文化の至宝というにふさわしい。前述の通り、HARIPRASAD CHAURASIAの作品は5枚程所有しており、その全てが素晴らしいが、この作品は何回繰り返して聴いても飽きることがない。ま、HARIPRASAD CHAURASIAの作品としては自分が最初に購入したものであるが故の思い入れがある事も否定できないが。
ちなみに、このCDをシンガポールから持ち帰り、バリの滞在先のロスメン(民宿)で聴いていたところ、たまたま隣の部屋に泊まっていたバリ人が突然訪れ、「今聴いていたのは何だ?是非自分も欲しい。ダビングさせてくれ」と言ってきた。「本当はいけないんだけどなぁ…」と思いつつもダビングしたところ、彼はいたく気に入ったようで、その後しばらくの間、在室中は隣の部屋からは四六時中この音楽が聞こえて来た…
当時、インドネシアのノー・ビザでの滞在期限は60日であった(現在は30日に短縮)。つまり、2ヶ月毎にビザを更新すべく一旦出国せねばならなかった。で、俺が出国先に選んでいたのがシンガポールだった。
当時は俺と似たような志を持った者が滞在先近辺に何名かおり、中には午前中の便でシンガポールに行き、夕方の便でバリに戻るような猛者もいたが、俺はシンガポールに行くと「せっかっく来たのだから」と、必ず2泊はしていた。
シンガポールは人種の坩堝だ。メインストリート周辺は青山あたりと雰囲気が良く似ていたが、ちょっと中心部を外れると、華僑、マレー系住民、インド系住民がそれぞれに民族色豊かな街を形成していており、それぞれの地域に独特の雰囲気が漂っており、非常に興味深かった。
特に俺が気に入っていたのはリトル・インディアである。美しいサリーに身を包んだ彫の深い顔立ちの女性達、お香の匂い、極彩色に彩られた建物、店先に並べられた美しいレイ(と、言うのか?)、そしてどこからともなく流れてくる民族調の音楽。これらの要素が俺の五感を刺激し、特に用事がなくとも何時間居ても飽きることは無かった。
で、初めてリトル・インディアに行った折、インドの民族音楽に興味があったので、CDショップに入った。が、事前知識があまり無かったので、(ラビ・シャンカール、ザキール・フセインくらいしか知らなかった)「お勧めのCDを5枚紹介してくれ」と店員に申し出て、購入した中の一枚がこれである。
The Mystical Flute Of HARIPRASAD CHAURASIA
俺はインドの民族音楽についてあれこれ言えるほど詳しくない。CDも4~50枚程度しか所持していない。
話は飛ぶが、たまに、「ガムラン音楽は云々かんぬん」と、全てのガムラン音楽を総括して論じようとする乱暴者を見かける。彼らにとっては「ガムランとは金属打楽器中心のアンサンブル」なのであろう。これはある意味正しいのだが、中には「音階を持ったメタル・パーカッション」くらいの意識の輩も居たりして(音楽業界の一角にたむろする似非ヒーリング・ミュージックを粗製乱造する連中はこの程度の意識の奴が多い、と感じている)文化的側面に目を向けず、音響のみを偏重する傾向は個人的に苦々しく思っている。
誤解なきように断っておくが、俺が言っている「文化的側面」とは、宗教がどうのこうのとか、そんな難しいことではない。ガムランをまっとうな音楽としてとらえ、他民族の伝統文化に敬意を払っているかどうか、というだけの話である。
あえて言わせてもらえば、金属製鍵盤打楽器が中心のガムランだって、ゴン・クビャール、スマル・プグリンガン、プレゴンガン、ゴン・サロン、スロンディン、グンデル・ワヤン、その他諸々の種類があり、それぞれに音響的特長も演奏する曲も違う。さらに金属製鍵盤打楽器を使いながらもそれがアンサンブルの中心にない、もしくは一切金属製鍵盤打楽器を使用しない(場合が多い)ガムランとなると、ティンクリック、ジョゲ・ブンブン、ジェゴグ、グンタン、ガンブー、ゴン・スリン、その他諸々の音楽形態があるのだ。
あれ?何を言いたかったんだっけ?
そうそう、同じようにインドの民族音楽にも様々な種類があって、音響的な特徴も演奏形態も多種多様なはずなのである。であるからして、俺なんぞがインドの民族音楽のCDをここで取り上げる資格なんぞない、と思いつつも、この作品は「インドの民族音楽に造詣が深くない者が聴いても素晴らしい」のである。
HARIPRASAD CHAURASIAはバンスリという横笛の巨匠らしい。おびただしい数の演奏が作品化されている。いくら好きとはいえ、さすがにリリースされている100枚近い(もしかしたらもっとあるのかも…)CDを片っ端から購入することはためらわれ、後に5枚程を勘で選んで購入したが、その中でもこの作品の素晴らしさは(俺にとって)群を抜いている。
この作品は22分、15分、8分の3曲で構成されている。3曲目は時間あわせの為に収録されたと思われ、他の2曲と比較すると若干コンパクトにまとまっている印象であるが、それでも8分もある。
タンブーラ(ドローン専門の弦楽器)に導かれて緩やかに演奏が始まる膨らみのある音色のバンスリ。非常に幻想的な音色、そしてメロディー。しばらくの後に、ZAKIR HUSSAINの奏するタブラが演奏に加わり、曲にリズムが生まれる。曲が進行するにつれ、徐々にスピード感を増してくる。演奏に熱が帯びてくると要所で聴かれるバンスリとタブラの絶妙なコンビネーション。目にも(耳にも)とまらぬ細かいパッセージ、にもかかわらず流麗なメロディー。そして迎える荘厳な収束。
圧倒的な開放感。素晴らしい。
一聴するとフリー・インプロビゼーションっぽくも聴こえるのであるが、その実はメロディーやリズムの展開に特定の制限があり、その制約の上に演奏が成立しているようである。にもかかわらず、この自由度、そして美しい演奏。まさに民族性を超越した音楽文化の至宝というにふさわしい。前述の通り、HARIPRASAD CHAURASIAの作品は5枚程所有しており、その全てが素晴らしいが、この作品は何回繰り返して聴いても飽きることがない。ま、HARIPRASAD CHAURASIAの作品としては自分が最初に購入したものであるが故の思い入れがある事も否定できないが。
ちなみに、このCDをシンガポールから持ち帰り、バリの滞在先のロスメン(民宿)で聴いていたところ、たまたま隣の部屋に泊まっていたバリ人が突然訪れ、「今聴いていたのは何だ?是非自分も欲しい。ダビングさせてくれ」と言ってきた。「本当はいけないんだけどなぁ…」と思いつつもダビングしたところ、彼はいたく気に入ったようで、その後しばらくの間、在室中は隣の部屋からは四六時中この音楽が聞こえて来た…
The Mystical Flute of Hari Prasad Chaurasia
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Oriental
- 発売日: 1995/07/24
- メディア: CD